それは一版同時多色刷りから始まった、高柳裕の版画の世界


  私の版画技法と考え

<技法は思想>

油絵が「小説」とすれば、版画は「詩」であると思っている。長時間かけて一つの考えを表現する小説に比べ、言葉を厳選し簡潔に表現する詩の世界は、版画にとても近いものに思えるのである。

<一版同時多色刷り>

学部一年の集中講義で銅版画を駒井哲郎先生、石版画を女屋勘左衛門先生に学んだ経験はあったもののいざ制作となると思うようにいかなかった。そんな時深澤幸雄さんの書かれた銅版画の技法書に出会い、「一版同時多色刷り」を知った。インクに混ぜる油の濃度を変えると重ねても混じり合わないという「化学」を応用し、深い腐食をした銅板に硬・軟ゴムローラーで色を重ね、一度だけの刷りで多色を得る不思議な技法で、イギリスのウィリアム・ヘイターの考案した技法として世界に名高い。私はこの方法をアレンジし、凸版に色付けすることを考えていた。その後、文化庁派遣芸術家在外研修生としてパリ・アトリエ17(ウイリアム・ヘイター)で一年間研修。

<凸版との出会い>

その頃ある人の紹介でジャパンタイムスの製版部長に会った。階下の廃版室に案内された私が見たのは、インクにまみれた金属の山であった。それらは一ミリ厚のジンク凸版で、時のニュース・スポーツ・あらゆる広告が使用済み廃版となり山積みされていたのである。私はこれは使えると直感し、新しい芸術の為にと力説、頼み込み廃版をもらい受けた。家でインクを洗い落とし、真新しく輝く版の気に入った文字(もちろんすべて英文)や、写真版等を金属糸ノコで切り、コラージュ風に組み替え、さまざまな色付けをした。かくて「マスメディアの死骸」は鮮やかに蘇ったのである。ほとんどが広告やニュースの部分で出来ているため、当時の作品は色彩新聞の一ページのようなものになった。私は「読む版画」と命名し、夢中で制作し続けた。しかしいつまでも廃版に頼り続けるわけにもいかず、その上エレメントの多さと、色付けに長時間を要する超過酷条件のためと、主題の大きさの自由を得るために、自分で撮影するようになる。余分な要素は切り捨てられ、よりシンプルになった私の版画にこの頃から「写真技術」が大いに関係してくることになる。

<写真製版>

動物園へ足を運び、何十枚も撮影したり、モチーフを自分で組み立てて写真を撮り、そのフィルムを切ったり貼ったりして気に入ったかたちの亜鉛版を作る。素材から作り上げていくので刷りに入るまでの工程は並大抵の作業ではなく、一枚刷るのにも大変時間がかかってしまうため、どうしてもエディション数が少なくなる。

<エンボス発見>

ある時強力な圧をかけ刷った画面の一部が白く深々と空刷りされていたことがあった。たまたま色付けの失敗が産んだ怪我の功名であるが、これが空刷りを主とした私の「白い画面」が産まれた所以である。エンボスと鮮やかな色彩とのコンビ版画は1977年頃まで続くのだが、刷りの大変さと版画としての通常のエディションを確保するためにシルクスクリーンの時代へと移っていく。鮮やかな色は消え、モノクロームに近い、あるいは「シミ」のようなかすかな色とエンボス、この技法が10年ほど続き、やがてエンボスも消えて、シルクだけの「支点シリーズ」に突入する。

<支点シリーズ>

スタジオでモチーフとなる静物を組み立て、それらを撮影する。微妙なバランスで成り立つそのオブジェは、映像をコラージュしたものではない。本物の木や石、コップや鉛筆を使ってモチーフを組み立てていくと、必ずピタリと静止する一点があることを発見した。楕円形の石の上に置いたグラス、その上に斜めに置かれた鉛筆など、それらはほんの少し触れただけで崩れ落ちてしまう緊張感の中で成り立ち、そのモーメントをカメラという<目>でとらえるのである。

<近作 my favorite Artists シリーズ>

画家は、描こうとする対象を「モチーフ」という。目に見えない抽象を描く場合でも「自分」の内面等がモチーフとなる。さて、私の「モチーフ」は尊敬する芸術家や思想家や学者達の考え方、思想の仕組みに興味を持ち、それを「モチーフ」にしたことである。言い換えれば対象の人物の「脳」に入り込み、自分なりに「解体」咀嚼してそれを私の版画技法で表現しようというたくらみである。それは、対象者へのオマージュとある種のアイロニーが生まれ、ユーモラスで楽しい作業である。

inserted by FC2 system